さがら茶
旧相良町は、日本有数の茶産地として知られる牧之原台地の南部にあり、茶の栽培が盛んです。相良のお茶は長い日照時間と温暖な気候で育てられ、葉肉の厚い茶葉が生産されます。そのほとんどは、荒茶の製造工程で強い蒸気で葉の芯まで蒸され、渋味と苦味を抑えた「深蒸し茶」といわれる煎茶となります。このさがら茶は昭和62年と平成2年に、全国茶品評会の「深蒸し煎茶の部」で最高賞の農林水産大臣賞を受賞し、その品質の高さが認められています。
相良史料館
城閣を形どった史料館には田沼家に関する古文書・意次侯肖像画などを中心に国宝聖武天皇勅書(複製)、八幡宮の御船など文化財や歴史民俗資料、およそ270点が展示されています。相良城本丸址に建てられた史料館でごゆっくり歴史探訪なぞを…。
城下町相良
宝栄7年(1710)、この地に相良藩が置かれ、初代藩主は本多忠晴でした。中期に入って宝暦8年(1758)、幕府の重臣である田沼意次が藩主となってから、相良は城下町として華やかな時代を迎えます。明和4年(1767)相良に城を築くことを命ぜられ、翌明和5年、意次は相良城の築城に取りかかります。萩間川に橋を架け、田沼街道を整備し、安永9年(1780)壮大華麗な城を完成させました。さらに築城後も道路を広くし、港を整備し、総合的な町の整備を行い、相良は、遠州地方の経済文化の中心地として繁栄を極めたのです。
相良凧
相良凧は尾がなく、角型の二本かなで、ビードロ糸が特徴の長崎凧に似た凧です。江戸時代からの伝統を持ち、蘭学者平賀源内が、長崎凧を相良に伝えたのではないかといわれています。今でも、端午の節句には凧揚げをする習わしがあります。
陣太鼓(船若寺)
意次候秘蔵の陣太鼓。張皮の切り跡は寺に押し入った盗賊の仕業と伝えられています。
相良油田
相良油田は明治5年(1872年)浜松県士族村上正局が発見し、明治6年(1873)石坂周造が菅ヶ谷に開坑、採油を始めました。初期の頃は手掘り作業により掘井され、深さ60間(109m)までありましたが、明治末期には深さが100間(182m)に及んだものもありました。しかし、中には浅い所(21m位)で湧出したものもありました。この採油は主に日本石油株式会社によって行われ、明治7年(1874年)にはわが国で最初の機械掘井が行われました。この石油坑で最も産油量が多かったのは明治17年頃で、年間721.6kl(ドラム缶3,600本位)に及びました。しかし、その後徐々に石油がとれなくなり、次々と井戸は取り壊され、現在はただ一つ機械掘り井戸が一基残っています。今のヤグラは昭和25年に開坑された機械掘井戸で、深さ310m、相良油田最後の石油坑です。
子生れ石
岩の壁から生れる石!?ウソのような本当の話が、西萩間大興寺に伝えられています。寺の住職の往生直前に必ず裏山の沢の涯から石が生まれる、という不思議な現象からこの名前があります。この様子が、岩から石が生まれ出るように見えるため、長寿・安産の石として信仰を集めています。
相良子生れ温泉
ここは、豊かな自然に囲まれた静かな温泉です。お子様からお年寄りまで、いつでもだれでも気軽に利用できる施設です。館内に設けられたロビー、男女浴槽、露天風呂、休けい室で、1日中の〜んびり。良質な温泉がきっと、体だけでなく心まで爽快にしてくれることでしょう。さあ、相良子生れ温泉で湯ったりリフレッシュタイムしませんか!
大鐘家〈重要文化財〉
田畑の穂をすりぬけていくと、山を背に白壁の長屋門が見えてきます。これがこの地方最古の民家大鐘家。大鐘家は慶長2年(1597年)祖大鐘藤八郎貞綱が当地-旧大磯村-に移り住み芝切りになったといいます。この住宅母屋の部分は全て手斧造りで、柱等骨組みの木材にははっきり手斧目がついています。梁上部の組み方等は江戸時代初期の様式。土間の中央にある「かまど」「座敷へっつい」は珍しく興味をそそります。
根上り松
宝栄4年(1707)の大津波の時、根元が洗われて根上がりになったと伝えられていますが、風蝕のため長い年月の間に根が露呈したもので、高さ3m近くも根が地上に現れています。
相良サンビーチ・相良シーサイドパーク
(株)小栗農園 |
0548- |
58-0680(事・工)
58-0068(自) |
相良物産(株)茶業部 |
〃 |
52-4780(事) |
(名)澤田行平商店 |
〃 |
52-0046(代)
52-1407 |
(株)名波伝十商店 |
〃 |
52-1031(工・事)
52-0494 |
(有)藤波園 |
〃 |
87-2688 |
(株)丸紅 |
〃 |
54-0324(代) |
(有)ヤマス |
〃 |
27-3232(代) |
(株)喜作園 |
〃 |
25-5100(TEL) 27-3727(FAX) |
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