平成17年3月26日第2回代戯館まつり写真集


講演会・映画会(沼津兵学校)
樋口先生・四方先生
四方先生の基調講演
樋口先生と四方先生の対談
聴衆の皆様
樋口先生
メモをとる参加者
遠藤実行委員長
映画「沼津兵学校」の解説をする
樋口先生
講演が終わって
除幕式
溝渕委員・樋口氏・四方氏・木口氏
林氏
四方氏

代戯館まつりにあわせ・銘板上本通り商店街が設置

上本通り商店街振興組合(長谷川徹理事長)は、記念銘板除幕式を第2回代戯館まつりにあわせ、設置場所である同通り西側の香陵ライオンズ石碑隣で行った。

銘板は、沼津兵学校の頭取を務めた西周が沼津に来た明治元年、同通りがどのような状態であったかを示す図と、西の妻升子がつけていた日記から一部を抜粋している。西夫婦がわずかな期間ながら沼津で最初に腰を落ち着けた三枚橋、さらに一年半ほど住んだ、現あまね(中央)ガード南端付近への引っ越しの様子などが記されている。

銘板が設置されたのは、沼津兵学校附属小学校が当地にあったことを示した香陵ライオンズクラブ建立の石碑の横。石碑は七年前に建てられた。石碑には、「わが国最高の教育・文化の粋沼津兵学校を開設した」と、同校を開設した静岡藩の業績などをたたえる四方一弥沼津史談会会長の文が刻まれている。同商店街では、既にあったこの石碑を、より市民に知ってもらう意味で今回の銘板を設けたという。(沼朝3月30日号)





2005年04月07日
都道府県ニュース

代戯館まつり:
街の歴史振り返る ゆかりある西周の足跡も−−沼津 /静岡

 日本最初の近代的小学校とされる沼津兵学校付属小学校の前身の「代戯館(だいぎかん)」にちなんだ「第2回代戯館まつり」が26日、沼津市大手町で開かれた。同兵学校の校長も務め、近隣に住んでいた西周(あまね)に焦点を当てた講演会や屋敷跡を刻んだプレートの披露などが行われ、街の歴史を振り返った。

 沼津上本通り商店街振興組合(長谷川徹理事長)の主催。まちおこしの一環で、長谷川理事長は「歴史や文化を掘り起こしながら街の存在感を高めたい」と話している。

 沼津信用金庫本店ホールでは、沼津史談会の四方一〓(よもかずみ)会長と国立歴史民俗博物館の樋口雄彦助教授が西周の業績について対談した。同市大手町の上本通りの一角には、同付属小学校が開設された明治元(1868)年と現在の上本通りを組み合わせた絵図や西周の屋敷跡、西夫人の升子(ますこ)さんの日記の記述などが記された記念碑の除幕も行われ、西周の沼津に残した足跡をしのんだ。【渡辺明博】

毎日新聞 2005年3月27日

近代的小学校発祥の地PR

沼津兵学校付属小・商店街、活性化へ案内板

JR沼津駅前の上本通りに明治初期、日本で最初の近代的小学校といわれる「沼津兵学校付属小学校」があった。沼津上本通り商店街振興組合が案内板を作り、26日に除幕する。兵学校の頭取(校長)を務め、通り沿いに住んだ西周(18291897)の屋敷跡も示す。長谷川徹理事長(59)は「商店主が活気を取り戻すきっかけにしたい」と願っている。

上本通りは沼津城西の外堀があった所で、商店街は約130店舗ある。案内板は縦33a、横87aのステンレス製。沼津市明治史料館の協力で明治元年(1868)と今の上本通りの位置を組み合わせた絵図を作り、付属小学校跡地などをプレートに刻んだ。西周夫人升子さんの日記も引用。同年10月に兵学校頭取として沼津に到着した時から、屋敷へ引っ越すまでの記述を示す。プレートを赤御影石にはり付け、98年に沼津香陵ライオンズクラブが通り沿いに設置した「日本の近代的小学校発祥の地」石碑の隣に置く。

今回の試みは、付属小学校の前身・代戯館にちなんで、商店街が昨年から始めた「代戯館まつり」の一環だ。「福引などありきたりの催しにせず、近代的小学校発祥の地として、通りの存在価値を掘り起こそう」と、昨年は通りのビルで小学校の教科書や教授などの写真パネルを展示し、小学校の意義を知らせる講演会を開いた。

今年は26日に催し、沼津信用金庫本店(大手町)のホールで記念講演会のほか、今井正監督のデビュー作「沼津兵学校」(39)を上映。この後、除幕式がある。同金庫ストリートギャラリーでは、30日まで「西周展」も開かれている。

長谷川理事長は「案内板で通りの歴史を市民に知らせることで、商店街の精神的な支柱にもなる」と期待している。(朝日新聞3月22日朝刊「記者・グッドニュース賞受賞」)


代戯館まつりで業績たたえる・講演と対談で人物像描く

 

上本通り商店街振興組合(長谷川徹理事長)は、第2回代戯館まつり記念講演会と映写会を大手町の沼津信用金庫本店で行った。四方一弥沼津史談会会長(元国士舘大学文学部教授)による講演の後、四方会長と国立歴史民族博物館の樋口雄彦助教授(元明治史料館学芸員)による対談が行われた。

四方会長は講演で、沼津兵学校の頭取を務めた西周がどういう人物か尋ねられることが多い、として講演のテーマを「西周」にしたことを説明。西の出生地で、生家が残っている島根県津和野町でも、西と親戚関係だった森鴎外は知られているが、西は知らない人が多いという。同地では西の顕彰もあまり行われていないことから、「沼津が(主に)西周を顕彰することになれば、沼津にとって大きな拾い物をしたことになる」と話した。

日本の近代化にとって西はいなくてはならない人物だったが、その業績の一つに、思想という目に見えないところで、大きな役割を担った。四方会長は、「時代はある一点で、一度に変わることはない。西周が出たから急に近代化されたと思うのは間違いだ」として話を進行。「明治時代の日本人はものの考え方が非常に東洋的だった。心理学という言葉を使い始めたのが西周だが、西の本に『致知啓蒙』(ちぢけいもう)がある」として、話の筋道をつけていくことを教えるためだったというこの本の内容を説明。本の最後に『駿河西周』と書いているが、西が駿河にいた時というのは沼津しかなく、しかも、同書は、日本で最初に書かれた形式論理学の書籍となった。四方会長は続けて、「日本では話の筋道をつけるという学問はなかった。西洋人は分析的に物事を見るが、日本人は筋道を立ててものを捉えていくという考え方がなかった」とした。また、同じく西の著作『万国公法』について、ペリー来航後、国際社会に入らざるを得なかった日本が、一方で生麦事件など援夷の動きもあり、幕府としては、危険人物は自宅から出ないよう命令を出したりし、このような命令がまかり通るのも日本が国際社会から外れたルールに従っていたことの表れだった。

西は、「日本も国際社会のルールを知らなければならない」として『万国公報」を翻訳。さらに別の著作『百一新論』について、「世の中にはいろいろな学問があるが、奥底ではつながつている。諸汝の学問は行き着くところは一つ(に集約される目的を持ったもの)なんだ、という彼の思想の神髄を著している」と説明。「(西が書いた)本はどれをとっても日本の新しい学問を代表する著作で、日本が変わる原動力になった。日本の近代化を代表する人、という意味が分かってもらえたと思う」と話した。その上で、「西周は(沼津)兵学校の校長先生だから偉いという人もいるが、確かに校長だから偉いのかも知れないが、新しい分野を切り開いたから偉い、偉いから校長になったんだと、このように捉えていただければと思う」と話した。

そして、『百一新論』に話を戻し、「いろいろな物事を突き詰めていけば一つのものに帰着するんだ、ということを言っているが、学校、家庭、宗教には、それぞれ教えがある。罰して正しい道を教えるという意味では法律も教えで、教えと政治は、人を教えるのと人を治めると違うように見えるが、世の中を平和するという目的では一致している」などと解説。このように多用な物事の共通するところを見つけることが重要だと同書では教えているという。四方会長は、「西は気性の激しいところがある」として、著書の中にも荒っぽい表現が見られることを指摘。例えば「僧侶が座禅をすれば世の中が良くなるのか。お祈りをすれば世の中が平和になるのか」といった意味のことが書かれているという。

その上で西は、天災は自然現象、祈りは人の心の働き、というように分析的に考える方法を記した。現代のように分析する西洋的なものの見方を伝えた。四方会長は、「それでは物事を分析し、分ければそれでいいかというと、そうではない」とし、「分析後、分析によって区別されたもの同士の共通部分を見つけることが必要だ」と話を戻した。違いがあるように見えても多様な物事の根は一つであるということを知ることが『百一新論』の内容。このほかにも西の業績として、「心理学」と「哲学」という言葉を初めて使ったことを挙げた。

この後、四方会長と樋口助教授の対談が行われ、樋口助教授は、西が沼津にいた期間を、明治元年十月二十四日から、明治政府にスカウトされて沼津を出る三年九月二十日までとし、その間に残された資料は西夫人の日記や西のメモ書き程度と少ないことを説明した。西は沼津に来て最初の頃は三枚橋町に住み、それから静岡藩(徳川家)から与えられた、現在の中央ガード南端の場所に移り住んだ。約二年間の沼津時代の半年間程、津和野町に戻っていた期間があり、沼津にいたのは実質一年半程。この短期間に『致知啓蒙』を著すなど活躍したことから西の業績をたたえた。(沼朝4月2日号)


西周の足跡・パネルで紹介

明治の思想家で沼津兵学校頭取(校長)を務めた西周(にし・あまね、一八二九ー九七年)の足跡や遺品などを紹介した沼津市明治史料館の館蔵資料展が三十日まで、同市大手町の沼津信用金庫本店ストリートギャラリーで開かれている。

展示されているのは津和野藩医の家系に生まれた西周の系図や訳本、肖像写真のほか、使用した懐中時計や机、書き残した書や書簡など。パネルで足跡も紹介した。沼津城の中にあった沼津兵学校の位置を示した地図もある。

西周は、現在の島根県津和野町で生まれ、オランダ留学後、幕臣となった。明治元年(一八六八年)、四十歳の時に頭取となって沼津に移り住んだ。同三年に新政府の命で上京して役人となる一方、著作や訳本、論文を発表した。沼津時代の住居は「あまねガード」(旧中央ガード)南側にあり、西周にちなんで名付けられた。30日まで。(静新3月3日朝刊)